大蔵地域自治協議会情報サイト 
 HOME じろはったん村の村つくり計画 「じろはったん」とは 大蔵地区概要 大蔵お宝マップ   高田の一本橋
●お宝マップ
 大蔵地区の名所旧跡を紹介します。 
 
●寺谷 
1.手谷神社 -寺谷区西のはずれ-
 武内手谷神社は延期式神名帳(927年)に記載されている武内社(2861社)のうち2100番目に列せられる由緒ある神社である。社名の寺谷(てだに、てたに)から、地名の「寺谷」へ変化したとも考えられる。祭神は小彦名令(スリナヒコナノミコト)である。
 
   
  ●東谷
2.城ノ山古墳 -国道9号バイパス山側-
 4世紀頃の築造といわれる。古墳の形態は直径36m、短径30m、高さ5mの楕円形。中には組み合わせ式の箱型木棺納められ、朱塗りで、埋葬された人間の頭蓋骨や副葬品として6枚の銅鏡や石釧、石製品と勾玉、管玉、直刀や小刀が出土した。おそらく、旧養父郡、朝来郡を含めた南但馬の広域を支配していた王の墓ではないかと言われている。
 3.内倉神社 -和田山町東谷-
東谷・平野区の氏神である。いつの時代に創建されたか、またどこから遷宮したかは資料が無く不明。ただ、神社の隣接地で玉を造ったとされる場所が発見されたが、曲玉や勾玉を造っていた時代にはまだ神社は無かったことは明らかである。 
 
   
  ●平野
4.池田古墳 
 池田古墳は5世紀初頭に築かれ但馬最大、県下4番目の大きさを誇る。但馬の王墓とされる前方後円墳である。全長約140m。最近の発掘で全国でも珍しい渡り土堤の遺構や子持ち水鳥のはにわ等も発見された。大和王権ときわめて近い関係にあると推測されている価値の高い古墳である。
5.観音堂  -池田古墳の上方-
  平野の山手、池田古墳の南方にある。古く江戸時代以前より祭られていた。近くの地蔵さんも併せて祭ったことから夏の地蔵盆の頃になると各戸から女性がお参りし、交流やいこいの場になったという。
   
  ●宮田
6.法泉寺  -宮田区南側の山麓
 瑞龍山法泉寺は臨済宗のお寺。開創は江戸初期か。「じろはったん」の舞台となった。春には桜の古木が見事な花で鐘つき堂を包み、江戸期の高瀬の俳人安立巨山、森はなさんの句碑が立つ。
7.若宮神社 -宮田区南側-
 119段の石段を昇りつめると、円山川を眼下に高瀬から堀畑、大塚に至る往時の石和下小庄を一望できる。創建時期は不明だが豊岩窓命(とよいわまどのかみ)他の神々を祀る。社業にはやぶつばきが多く「山ノ口明神」の一本は幹周1.3mの大木。近年植樹した桜が大きく育ち、毎年桜祭りが行われる。 
   
  8.森はなさんと作品  -和田山町宮田-
 児童文学者、森はなさんは明治42年大蔵村宮田に生まれました。小学校の教師を退職後、児童文学に取り組み、「じろはったん」「もどってくる もどってこん」「ひいちゃんとタチアオイの花」や絵本など多くの作品が生れました。
●土田
9.土田の街並
 今に残る土田の街並みは、出石小出氏の分家がここに陣屋を定め、町をつくったことに始まる。街道に沿って水路、縦長の計画的な町割など、近世初頭のたたずまいを今に残す。小出家の陣屋は今はない。
   
  10.川すそ祀り -観音堂-
  土田の川裾(かわすそ)様は、太陽とお月様を祭っており、いつのころからの祭りか、わからない程古い祭りであるという。大倉部川の流れが西から東へ(下から上へ)と流れを変え、その神秘さを祭ったものだという。  
●西土田
11.鳶が城  -西土田西側山頂-
  鳶が城は見晴らしが良い。古く土田郷の支配者であった土田氏の居城として鎌倉時代に築かれた。その後も、幾度の改修を経て戦国時代まで利用された。山頂、山腹には曲輪やたて堀の遺構がよく残っている。
   
  12.観音寺城 -観音堂裏山山頂 9号線南-
  室町時代、幕府奉公人、土田太郎左衛少尉の城ではないかと和田山町史にいう。観音堂裏手の山頂付近、尾根一帯には縄張りがあり、小さな城ではない。 
●高瀬
13.大ケヤキ -高瀬区上地
  上高瀬、足立屋敷のそばにある。幹周り6.25m。推定樹齢600年の古木である。昔より巨木胎内の地神様とともに崇拝されている。 
   
  14.名水とお不動さん -高瀬区上地-
  上高瀬の山の根にこんこんと清水の湧き出る井戸がある。どんな干ばつの年でも枯れたことはないと伝わる。井戸の上には不動明王が祭られている。お茶やコーヒー通の人は一度ご賞味あれ。 
15.つきよね権現社 -三柱神社境内- 
  三柱神社の中に祭られている。鳥取若狭の春米神社の分霊を祭っている。古来、婦人安産の守護神として庶民の崇敬を集めている。 
   
  16.高瀬地蔵堂 -高瀬区下高瀬-
  高瀬の地蔵堂は今も区民の大切な宝として守られている。こに地蔵堂に祭られている地蔵尊には有名な竹ノ内大柱、衣木にまつわる伝説が残されている。 
●法道寺
17.法道寺城跡
  法道寺城跡は、城山の頂上が標高230mに位置し、大きな堀り切りを挟んで土塁囲みの二郭からなっている。天正5年(1577年)以降の織豊勢力と毛利党と対峙したであろう重要遺跡である。同区にある岡城が居館で法道寺城が山城とセット関係で竹田城の支城として重要な場所に構えられていた。
   
  18.おでさん道 -亀岡山法道寺の回廊
  明治28年(1895年)法道寺集落ならびに、近隣集落や遠くは夜久野、大屋地区に至るところの有志によって、浄財を集め、88ヶ所178体の地蔵を参道整備とともに設置した。全長1130mとなっている。参道途中の物見台からの展望は絶景であり、特に大倉部山を望む自然豊かな情景は、大蔵八景に値するだろう。表参道は千本桜をめざして、毎年植樹事業が継続して進められている。
19.古文書 -法道寺区民館・資料庫- 
 川尻山の享保・文政時代の訴訟文献。江戸享保時代の山論以来、山林田畑にかかる貴重な文書が数百年に渡り、村の庄屋・年寄りといったリーダーたちによって大切に引き継がれ保存されている。山論のことのおこりから、終わりまで、訴訟から判決まで、その費用から費用捻出に至る全てが記録として残っている。数メートルに及ぶ大型の証さ絵図面つき判決文・大岡越前の署名黒印が記されている。
   
   ●岡
20.岡城跡 -岡区 西部の山
 岡城は岡集落の西面の舌状尾根先端にある。後方の尾根を大規模な堀切で遮断し、その前面に3段からなる大きな土塁囲みの居館をつくっている。阿曽沼氏の居城を織田軍が改造したものとみられている。見晴らし抜群である。 
21.岳堂平 -大倉部山 山頂付近- 
 大倉部山の山頂付近にある平らな場所である。推古天皇の時代に聖徳太子が巡礼され、この地に寺を開かれたと伝わっている。この岳堂平に7ヶ寺あって栄えたという。後代になって寺寺が山を降り、1つは畑の長福寺、一つは竹田の観音寺、そして一つは岡の観音寺と伝えられている。ちなみに養父町史では、この場所は「寺が平」と記されている。
   
  22.観音寺庭園 -岡区 別所地区観音寺内-
  古くは聖徳太子建立の伝説のある観音寺の本堂横に、ひっそりとたたずむ名園がある。本庭は江戸時代のもので、岩崎清光の作とみられ、日本庭園史上においても価値をなす名園とみられている。 
●宮内
23.盈岡神社 -宮内区-
  盈岡神社は大蔵の中で2つある式内社のうち1つである。気長帯姫命と神功皇后(おきながたらしひめ)を祀り、但馬131社の社座の中心社の1つである。かつては、石和7ヶ村(宮内、岡、法道寺、高田、高瀬、堀畑、大塚)も総氏神であった。
   
  24.宮内古墳群 -宮内区内に散在-
  宮内の谷奥の小字名に、後にその地域名となった「石和」の名がある。宮内の古墳群は6世紀から7世紀に造られたもので、20基を数えるが、まだ未発見のものも多い。国道9号線沿いにある丸山古墳(前方古円墳)を代表に、西垣古墳群など集落を囲むように点在している。
 
●高田
25.高田の一本橋(2010年撤去済み)-高田 円山川-
  高田区民が円山川を渡って対岸の田畑や山林に行くために昔からあった流れ橋である。今では対岸にある地蔵堂にお参りする為にこの橋を利用していることが多くなった。時代劇のロケに使われたこともある風情ある景観となっており、雪の一本橋など、写真を撮るファンも多い。高田八景の1つ。
   
  26.中島太郎兵衛の墓 -国道9号線の南
  高田の大庄屋であった中島太郎兵衛と弟の黒田興一郎は幕末の討幕運動に関わり、生野義挙にリーダーの一人として参加した。長州奇兵隊の前総督(南八郎)と画策して、農民軍を育成せんとした。死後、明治になって従五位下を下賜された。 
27.高田村芝居 -高田公民館-
  高田区は昔より村芝居の盛んな所であった。近年その伝統を受け継ぎ、区民有志で「高田三軒家劇団」を結成し、有名な時代劇を親しみやすい芝居にアレンジして上演し、人気劇団になっている。 
   
  28.高田地蔵尊 -高田地区内全域
  当地区内には、数多くの地蔵堂及び地蔵さんが建立されている。特に野に建てられているお地蔵さんには四季折々の花が飾られ、住民の信仰の深さがうかがえる。しかしながら長年の風雨にさらされ風化が進んでいる。今後も高田区の大切な文化財として守っていきたいと思う。 
●芳賀野
29.大ケヤキ -本芳賀野の千種家住宅の前-
  本芳賀野の千種家住宅の間前にそびえる。樹齢200年、幹周り2mを越す。往時は2本そびえていたが、今は1本残すのみ。大蔵の在所にある樹木では一番の高木か。 
   
  30.石堂の石仏と古道 -古道(枚田〜岡線)沿い農免道下-
  かつて、枚田、土田方面と芳賀野(岡谷)を結ぶ古街道があったという。明治時代には、軍隊が演習で行軍して行ったという話も残っているし、また、昭和の年代においても藤和から岡谷を経て街道を通って解体された民家が移築の為に東谷まで輸送されたこともあったという。その街道の一部が芳賀野谷のあちこちに残っている。街道に面して、人工の石に囲われた石仏が昔の敷地のままに今に残っている。
31.芳賀野城跡 -本芳賀野-
  本芳賀野の荒神社の上にある農免道路から尾根を上ること100m程の上にある。最近発見された山城であり、たて堀などの遺構から見て戦国時代まで利用されていた可能性のある城である。規模から見て芳賀野の地侍後の山城であり、岡谷全体防御の面からは、枚田・土田方面からの侵入を防ぐ役割があったと考えられる
   
    大蔵十二城 -大蔵地区-
大蔵地区は古来養父郡と朝来郡の境にあるせいか、中世の山城が多くある。知られているのは、鳶が城、法道寺城、岡城などだが、その他にも寺谷城、観音寺山城(土田)高瀬城、芳賀野城、岡びくに城、岡の高城、茶臼山城、茶臼山北城、雑賀城(以上高田)がある。 
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