12集落―――人口3,400人余。新旧、人いり交じる。
いつから、この地域を<大蔵>と呼ぶようになったかは定かではない。
多分、明治時代以降のことである。由来は「大蔵部山」であろう。(江戸時代はこう表記していた)
古代、この地域は<石和郷>と称され、その後、石和郷と土田郷に分かれた。
石和庄、高田庄、土田庄などと呼ばれた時代もある。藤和や大塚がこの地域の一部だった時代もあるようだ。
北流する円山川が大きく西に蛇行し、唯一西に流れる所。
大半がその南岸(一部北岸)と大蔵部山に挟まれた東西の細長い地域である。
城の山古墳や池田古墳が存在することからみれば、古代、但馬の王様のひざ元であったことがわかる。
又、宮内や高田のおびただしい古墳群を見れば、古代ににいち早く開発された豊かな先進地であったようだ。
以降、日本史の中で様々な位置を占めつつ、豊かで多彩な郷土文化を育んで、1500年の時を経て今日に至っている。